イザヤ書6章から
私たちは皆、どこかに存在しています。それは当然のことです。しかし、生まれる場所を選択することができません。私はオーストラリアに生まれました。様々な国出身の友人がいます。インドに生まれていたら、まったく異なる人生となっていたことでしょう。この国、この家族、この身体を与えてくださった方は誰でしょう。クリスチャンはその方が神であると信じています。与えられた状況にはどのような意味があるのでしょう。
預言者イザヤ6章には、神の御前でのイザヤの反応や応答が明確に示されています。この箇所から、イザヤに与えられた意識について学びましょう。
神の御前に立つとき#
神と自分との関係について、どのように考えているでしょうか。友達?父?支配する方?どのような関係であっても、ここには根本的な問題があります。私たちは、常に自らの意志で道を選び、神に背を向けがちです。この反抗的な姿勢を認めない限り、神との真の関係を深めることはできません。人間として、神との関係を回復するためには、まず自らの状況を正直に受け入れることが不可欠なのです。ですから、神の御前に立つとき、自分が不完全な存在であるという意識が必要です。
イザヤは神殿の幻を見ました。聖なる場所へと導かれ、セラフィムという御使いを目撃したのです。神の声は、地震のようにその場所を揺るがし、深い畏敬の念を呼び起こしました。その経験を通して、イザヤが抱いた意識は「ああ、私は、滅んでしまう」でした(イザヤ6:5)。
畏れ多い神と対面した預言者イザヤは、自らが全くふさわしくない者であることを明確に認識しました。くちびるの汚れた民の中に住む者として、自分自身も汚れた存在であることを深く自覚したのです。その理由は「万軍の主である王を、この目で見たのだから」でした。神の栄光を垣間見たことで、神こそふさわしい方であり、自分はその逆であるという意識を持つようになったのです。
学生として、教師の前における自分の立場がはっきり分かるでしょう。もし「自分は先生より優れている」と思えば、そのクラスで良い結果を得ることはできません。神の御前にいる自分も、同じような意識が必要です。「自分は反抗者である、自分は不完全である」と。その状況が分からなければ、生きていくのに必要な神の恵みを心から受け取ることができません。
完全な赦し#
「私は不完全な者です」という告白をした後、神は私たちをその希望のない場所に置いたままにされません。神は恵みをもって赦しをもたらす方ですから、その御心によって人を赦してくださるのです。
セラフィムがイザヤのもとに飛んできました。手には燃える炭を持っていました。聖書において、火は裁きを意味すると同時に、神の義を表しています。その炭がイザヤの口に触れると、「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と告げられました(イザヤ6:7)。これは完全な赦しです。イザヤは何もしていません。ただ神が赦してくださったのです。
高校の頃、私はコミュニティラジオで働いていました。ある日、有名人によるチャリティーサッカー試合に参加しました。その頃、私は結構有名でした…というのは冗談です。実は人手不足で誘われただけです。試合が始まり、ようやくボールが私のところに来ました。ドリブルをしながら進んでいくと、不思議なことに誰も近づいてきません。チームメートたちが私の名前を叫んでいます。その声援を聞きながらシュートを打ちました。しかし実は…そのゴールは相手チームのゴールだったのです。入らなくて本当に良かったです。
これはクリスチャンにとって時々起こる状況に似ています。もし自分が完全に赦されていることに気づかなければ、神のゴールではなく、逆のゴールに向かって走ってしまいます。つまり、間違った方法で義人になろうと努力してしまうのです。しかし、完全に赦されたという意識があれば、神に向かい、神ご自身に集中して仕えることができます。
神はご自身の御子をこの世界に遣わされました。イエス・キリストです。イエスは私たちの代わりに死なれることによって、私たちの裁きを引き受け、赦しをもたらしてくださいました。信じる者は、その赦しをすでに受けているのです。これは、汚れた者という立場から、義人という立場に変えられたということです。もはや、罪のチームのために働くのではありません。神のチームのために生きるのです。
遣わされた者として#
私たちは完全に汚れていました。しかし、完全に赦されました。この二つの意識を心に持った結果、何が起こるでしょうか。神と共に生きる自由が与えられたのですから、もはや自分のために生きるのではなく、すべての目的を神のご計画に向けるようになります。
イザヤが神の声を聞いたとき、神はイザヤに直接頼んでいませんでしたが、イザヤはすぐにこう言いました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)。私たちも同じです。どこにいても、どのような状況にあっても、「ここに、私たちがおります。私たちを遣わしてください」という心を持つのです。
イエスもイザヤと同じ言葉を引用されました(マタイ13:13-17)。イエスの存在は裁きをもたらすと同時に、恵みと赦しももたらします。それこそが神の福音です。イエスが私たちの罰を引き受け、それによって私たちは赦されました。しかし、それを信じない者にとっては裁きになります。この福音こそ、今、私たちクリスチャンが伝えるべきメッセージなのです。
この三つの意識が重要です。第一に、自分が不完全な存在であるという意識。第二に、神の赦しを完全に受けたという意識。第三に、神のご計画のために生きるという意識。この三つが、派遣意識の土台となります。遣わされたという意識があれば、自分が何のためにここにいるのか、神のメッセージとは何なのかが、深く理解できるようになるのではないでしょうか。