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確かだと思っていたものが砕かれるとき

·8 分
第一サムエル記 - この記事は連載の一部です
パート 5: この記事

第一サムエル記 2章4〜5節

高校を出たばかりの頃、初めての就職面接を受けました。

ある会社のコンピューターシステムを管理する仕事です。経験はゼロ。資格もない。ただ髪を切って、身だしなみを整えて臨みました。正直なところ、心の中では「本当にこの仕事、自分にできるのだろうか」と思っていました。

もし私の隣に、もう一人の応募者がいたとしましょう。何年もの経験があり、資格も持っている。自信に満ちた態度で面接官と話している。

この二人を見て、どちらが採用されると思いますか。

私たちは自然と、目の前の情報を「測って」います。経験がある方が有利。資格がある方が強い。自信がある方が印象が良い。これが私たちの「ものの見方」です。

しかし、その「ものの見方」は、本当に現実を正しく映しているでしょうか。


神のものさし
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前回の記事では、第一サムエル記2章3節から「神様だけが真の知識を持っておられる」ことを見てきました。そして、神のみわざは「測り知れない」と学びました。

今日は、その「測り知れないみわざ」が具体的にどのようなものか、見ていきます。ハンナは逆転について歌います。強い者が弱くされ、弱い者が強くされる。

この時代のイスラエルには王がいませんでした。みな自分の目に正しいことを行っていた。シロには神の家がありましたが、そこで仕える祭司たちは堕落していました。神の支配が見えない時代です。

そのような時代に、一人の女性が祈りの中で、全く違う「ものの見方」を歌い上げます。

4 勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。 5 満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。


三つの逆転
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ハンナは三つの具体例を挙げて、神の「測り知れないみわざ」を説明しています。

「勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。」

弓は、当時の最先端の軍事技術でした。訓練と技術の結晶です。弓を持つ者は「勇士」と呼ばれた——私たちの言葉で言えば、専門家、プロフェッショナル、実力者です。しかし、神の前では、その「実力」は保証にならない。1

一方、「弱い者」という言葉は、原語では「よろめく者」「つまずく者」という意味です。足元がおぼつかない者。軍事的な訓練もない。武器もない。人間の目で見れば、勝ち目がない。しかし、その「弱い者」が「力を帯びる」とハンナは言います。

ハンナ自身の経験を思い出してください。彼女には「敵」がいました。夫のもう一人の妻、ペニンナです。ペニンナの武器は言葉でした。「ハンナには子どもができない。神様がハンナの胎を閉ざしておられる」と、まるで自分が神様の計画を知っているかのように語ったのです。

しかし、神様は何をされましたか。ハンナに子どもを与えられました。ペニンナが「絶対にない」と断言していたことを、神様は実現されたのです。ペニンナの「弓」——彼女の自信に満ちた言葉——は、まさにその領域において砕かれました。

「満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。」

1章の場面を思い出してください。毎年の祭りの食事の場面があります。しかし、ハンナは食べませんでした。食卓の前にいながら、飢えていたのです。目の前に食べ物があっても、彼女の本当の飢え——神様からの祝福への飢え——は満たされなかった。

私たちの「ものの見方」では、豊かな者は安全、満たされている者は祝福されている。しかし、神の知識で見ると、「満ち足りている」ことは必ずしも祝福ではありません。本当の飢え——神様への飢え——を持つ者こそ、満たされるのです。

「不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。」

これはハンナ自身の経験そのものです。「七人を産む」とは「完全な祝福」を意味する表現です。2

当時の「ものの見方」では、子どもが多い家庭は祝福されている、将来も安心。しかし、神の知識で見ると、子どもの数は究極の安心を保証しない。私たちが「確かだ」と思っているものは、神の前では確かではないのです。


同じパターン
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少し立ち止まって考えてみましょう。

三つの例は、実は同じパターンを繰り返しています。勇士にとって弓は力の象徴、満ち足りた者にとって食事は安心の土台、子の多い女にとって子どもは将来の保証。何かを持っている。それが誇りになる。その誇りが安心の土台になる。

しかし、その土台は「岩」ではありません。

勇士は弓において砕かれ、満ち足りた者はその満足において砕かれ、子の多い女はその子において砕かれる——彼らが誇りとしていた、まさにその領域において。

現代の私たちも、形は違っても同じような土台を持っているのではないでしょうか。キャリアやスキル、経済的な安定、家族や人間関係。「私は知っている」「私は大丈夫」「私は安全だ」——この確信があるから、傲慢な言葉が口から出てくるのです。

では、ハンナは「何も信頼できない」と言っているのでしょうか。世界は予測不能で不安定だと言っているのでしょうか。

いいえ。思い出してください。2節でハンナは言いました。「私たちの神のような岩はない」と。

神様は「岩」です。動かない。変わらない。確かな土台。問題は、私たちが「岩」ではないものを岩として信頼していることです。


十字架という証明
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ここで一つの疑問が生まれるかもしれません。「ハンナの言っていることは分かった。しかし、それは本当だろうか。神様は本当に、弱い者を強くし、飢えた者を満たしてくださるのだろうか。」

この問いに対する答えは、聖書全体を通して、一つの場所に集約されていきます。

十字架です。

イエス様は神と等しい方でした。すべての力を持っておられた。しかし、その力を握りしめませんでした。荒野で空腹のとき、石をパンに変えることもできた。しかし、「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行うことです」と言われました。地上の子どもはいない。弟子たちは逃げ去った。死が目の前にある。しかし、「正しくさばかれる方にお任せになった」のです。

人間の「ものの見方」で見れば、十字架は完全な敗北です。力において——「他人は救ったが、自分は救えない」。満足において——「わたしは渇く」。将来において——子もなく、弟子もなく、死。

しかし、神様は何をされましたか。イエス様を復活させ、すべての権威を与えられました。「完了した」——父のみこころは成就しました。そして、イザヤが預言したように、「彼は末長く子孫を見る」——私たちが、イエス様の子どもとされたのです。

力を握りしめなかった方が、すべての力を受けた。自分の満足を求めなかった方が、神のみこころを成し遂げた。将来を神に委ねた方が、永遠の子孫を見た。

十字架は、ハンナの世界観が真実であることを証明しています。敗北に見えたものが勝利だった。弱さに見えたものが力だった。死に見えたものがいのちだった。


私たちへの問いかけ
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あなたは今、何を「測って」いますか。どのような状況を見て、「こうなるはずだ」と結論を出していますか。

もしかしたら、将来のことかもしれません。「この資格を取れば成功する」「この会社に入れば安心だ」。もしかしたら、人間関係かもしれません。「この人は変わらない」「この状況は良くならない」。もしかしたら、自分自身のことかもしれません。「私にはできない」「私は役に立たない」。

神の測り知れないみわざは、その結論を覆すことがあります。

「主よ、私はこう思っています。しかし、あなたのみわざは測り知れません。あなたの知識で、私の状況を見せてください」——そう祈ることは、不確実さに身を任せることではありません。岩である神様に信頼することです。

弓も、満足も、子どもも——これらは良いものです。しかし、岩ではありません。私たちの究極の安心は、これらの上に建てられるべきではない。

私たちの岩は、神様だけです。



  1. ヘブル語では「砕かれる」という言葉は、実は「弓」ではなく「勇士たち」を指しています。直訳すると「勇士たちは、弓において砕かれる」となります。つまり、壊れるのは武器だけではなく、勇士たち自身が自分の得意分野において神によって砕かれるのです。 ↩︎

  2. 実際、ハンナは六人の子どもを産みました(2章21節)。七は聖書において完全を表す数です。また「打ちしおれる」という言葉は、ヘブル語では単に「産めなくなる」という意味ではなく、「衰える」「しおれる」という意味を持ち、「持っていたものを失う」というニュアンスを含んでいます。 ↩︎

第一サムエル記 - この記事は連載の一部です
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