第一サムエル記 2章4〜5節
高校を出たばかりの頃、初めての就職面接を受けました。
ある会社のコンピューターシステムを管理する仕事です。経験はゼロ。資格もない。ただ髪を切って、身だしなみを整えて臨みました。正直なところ、心の中では「本当にこの仕事、自分にできるのだろうか」と思っていました。
もし私の隣に、もう一人の応募者がいたとしましょう。何年もの経験があり、資格も持っている。自信に満ちた態度で面接官と話している。
この二人を見て、どちらが採用されると思いますか。
私たちは自然と、目の前の情報を「測って」います。経験がある方が有利。資格がある方が強い。自信がある方が印象が良い。これが私たちの「ものの見方」です。
しかし、その「ものの見方」は、本当に現実を正しく映しているでしょうか。
神のものさし#
前回の記事では、第一サムエル記2章3節から「神様だけが真の知識を持っておられる」ことを見てきました。そして、神のみわざは「測り知れない」と学びました。
今日は、その「測り知れないみわざ」が具体的にどのようなものか、見ていきます。ハンナは逆転について歌います。強い者が弱くされ、弱い者が強くされる。
この時代のイスラエルには王がいませんでした。みな自分の目に正しいことを行っていた。シロには神の家がありましたが、そこで仕える祭司たちは堕落していました。神の支配が見えない時代です。
そのような時代に、一人の女性が祈りの中で、全く違う「ものの見方」を歌い上げます。
4 勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。 5 満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。
三つの逆転#
ハンナは三つの具体例を挙げて、神の「測り知れないみわざ」を説明しています。
「勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。」
弓は、当時の最先端の軍事技術でした。訓練と技術の結晶です。弓を持つ者は「勇士」と呼ばれた——私たちの言葉で言えば、専門家、プロフェッショナル、実力者です。しかし、神の前では、その「実力」は保証にならない。1
一方、「弱い者」という言葉は、原語では「よろめく者」「つまずく者」という意味です。足元がおぼつかない者。軍事的な訓練もない。武器もない。人間の目で見れば、勝ち目がない。しかし、その「弱い者」が「力を帯びる」とハンナは言います。
ハンナ自身の経験を思い出してください。彼女には「敵」がいました。夫のもう一人の妻、ペニンナです。ペニンナの武器は言葉でした。「ハンナには子どもができない。神様がハンナの胎を閉ざしておられる」と、まるで自分が神様の計画を知っているかのように語ったのです。
しかし、神様は何をされましたか。ハンナに子どもを与えられました。ペニンナが「絶対にない」と断言していたことを、神様は実現されたのです。ペニンナの「弓」——彼女の自信に満ちた言葉——は、まさにその領域において砕かれました。
「満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。」
1章の場面を思い出してください。毎年の祭りの食事の場面があります。しかし、ハンナは食べませんでした。食卓の前にいながら、飢えていたのです。目の前に食べ物があっても、彼女の本当の飢え——神様からの祝福への飢え——は満たされなかった。
私たちの「ものの見方」では、豊かな者は安全、満たされている者は祝福されている。しかし、神の知識で見ると、「満ち足りている」ことは必ずしも祝福ではありません。本当の飢え——神様への飢え——を持つ者こそ、満たされるのです。
「不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。」
これはハンナ自身の経験そのものです。「七人を産む」とは「完全な祝福」を意味する表現です。2
当時の「ものの見方」では、子どもが多い家庭は祝福されている、将来も安心。しかし、神の知識で見ると、子どもの数は究極の安心を保証しない。私たちが「確かだ」と思っているものは、神の前では確かではないのです。
同じパターン#
少し立ち止まって考えてみましょう。
三つの例は、実は同じパターンを繰り返しています。勇士にとって弓は力の象徴、満ち足りた者にとって食事は安心の土台、子の多い女にとって子どもは将来の保証。何かを持っている。それが誇りになる。その誇りが安心の土台になる。
しかし、その土台は「岩」ではありません。
勇士は弓において砕かれ、満ち足りた者はその満足において砕かれ、子の多い女はその子において砕かれる——彼らが誇りとしていた、まさにその領域において。
現代の私たちも、形は違っても同じような土台を持っているのではないでしょうか。キャリアやスキル、経済的な安定、家族や人間関係。「私は知っている」「私は大丈夫」「私は安全だ」——この確信があるから、傲慢な言葉が口から出てくるのです。
では、ハンナは「何も信頼できない」と言っているのでしょうか。世界は予測不能で不安定だと言っているのでしょうか。
いいえ。思い出してください。2節でハンナは言いました。「私たちの神のような岩はない」と。
神様は「岩」です。動かない。変わらない。確かな土台。問題は、私たちが「岩」ではないものを岩として信頼していることです。
十字架という証明#
ここで一つの疑問が生まれるかもしれません。「ハンナの言っていることは分かった。しかし、それは本当だろうか。神様は本当に、弱い者を強くし、飢えた者を満たしてくださるのだろうか。」
この問いに対する答えは、聖書全体を通して、一つの場所に集約されていきます。
十字架です。
イエス様は神と等しい方でした。すべての力を持っておられた。しかし、その力を握りしめませんでした。荒野で空腹のとき、石をパンに変えることもできた。しかし、「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行うことです」と言われました。地上の子どもはいない。弟子たちは逃げ去った。死が目の前にある。しかし、「正しくさばかれる方にお任せになった」のです。
人間の「ものの見方」で見れば、十字架は完全な敗北です。力において——「他人は救ったが、自分は救えない」。満足において——「わたしは渇く」。将来において——子もなく、弟子もなく、死。
しかし、神様は何をされましたか。イエス様を復活させ、すべての権威を与えられました。「完了した」——父のみこころは成就しました。そして、イザヤが預言したように、「彼は末長く子孫を見る」——私たちが、イエス様の子どもとされたのです。
力を握りしめなかった方が、すべての力を受けた。自分の満足を求めなかった方が、神のみこころを成し遂げた。将来を神に委ねた方が、永遠の子孫を見た。
十字架は、ハンナの世界観が真実であることを証明しています。敗北に見えたものが勝利だった。弱さに見えたものが力だった。死に見えたものがいのちだった。
私たちへの問いかけ#
あなたは今、何を「測って」いますか。どのような状況を見て、「こうなるはずだ」と結論を出していますか。
もしかしたら、将来のことかもしれません。「この資格を取れば成功する」「この会社に入れば安心だ」。もしかしたら、人間関係かもしれません。「この人は変わらない」「この状況は良くならない」。もしかしたら、自分自身のことかもしれません。「私にはできない」「私は役に立たない」。
神の測り知れないみわざは、その結論を覆すことがあります。
「主よ、私はこう思っています。しかし、あなたのみわざは測り知れません。あなたの知識で、私の状況を見せてください」——そう祈ることは、不確実さに身を任せることではありません。岩である神様に信頼することです。
弓も、満足も、子どもも——これらは良いものです。しかし、岩ではありません。私たちの究極の安心は、これらの上に建てられるべきではない。
私たちの岩は、神様だけです。