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すべてを知る神の前で

·6 分
第一サムエル記 - この記事は連載の一部です
パート 4: この記事

第一サムエル記 2章3節

15歳の頃、ちょっと恥ずかしい思い出があります。

その頃の私は、格好良くなりたかったのです。髪の毛を長く伸ばして、いい服を着て、格好いい歩き方をして——ティーンエイジャーの私は、イメージを大切にしていました。

ある日、髪の毛にブラシをかけるために、両親の部屋に行きました。別の洗面所があったのに、なぜそこに行ったのか覚えていません。たぶん、お母さんの鏡が大きかったからでしょう。

鏡の前に立って、髪の毛にブラシをかけながら、声に出して、こう言いました。「格好いいな。」

言った瞬間、後ろで音がしました。「ああ…」と思いながら、こっそり後ろを見ると——お父さんがベッドに座っていたのです。私の言葉を全部聞いていました。

顔が真っ赤になりました。穴があったら入りたいと思いました。

でも、お父さんは優しく言ってくれました。「大丈夫だよ。お父さんだから。」

皆さんの中にも、似たような経験があるかもしれません。本当の自分を隠して、良いイメージを保ちたいと思っていたのに、誰かに見られてしまった。知られてしまった。ティーンエイジャーの私は、格好いい自分のふりをしていました。でも、お父さんは本当の私を知っていたのです。


第一サムエル記2章で、ハンナは神に感謝の祈りを捧げています。その中で、彼女は不思議な組み合わせで語ります。「おごり高ぶって語ってはなりません」という警告と、「主はすべてを知る神」という宣言。この二つは、どうつながっているのでしょうか。

「すべてを知る神」とは
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まず、「すべてを知る神」という言葉を見てみましょう。ここで「知識」という言葉は、原語で複数形が使われています。これは量ではなく質を表し、「真の知識」「完全な知識」という意味です。

もちろん、神はすべてを知っておられます。神から秘密を隠すことはできません。神には奥義などありません。知らないことなど何もないのです。

しかし、神の知識は、私たちの知識とは根本的に違います。

私たちが「知る」とは、どういうことでしょうか。私たちは現実の世界に触れ、そこから事実を発見します。その事実を集めて、理解を深めていきます。これが私たちの「知識」です。つまり、私たちの知識は、すでにあるものを「受け取る」ものです。私たちの知識は、現実に合わせて形成されます。

神の知識は違います。

神は真理を発見するのではありません。神ご自身が真理の源です。神が知っておられることは、現実そのものなのです。私たちは真理を見つけます。しかし、神は真理を定めておられるのです。

例えを使って考えてみましょう。本を読むとき、私たちはその本から知識を受け取ります。しかし、神は著者です。神の知識が、その本を創り出したのです。

だから、「神が私を知っている」と言うとき、それは私が神に見せた部分だけではありません。神は私たちを完全に知っておられます。私たち自身が知っている以上に、私たちのことを知っておられるのです。

誇りの本質——知っているかのように振る舞うこと
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では、「誇り」とは何でしょうか。

ハンナの時代、ペニンナという女性がいました。彼女はハンナに子供がいないことを知っていながら、その痛みを刺激する言葉を繰り返しました。「私には子供がいる。あなたにはいない。」彼女の高ぶった言葉は、神がハンナに与えた状況を軽蔑するものでした。

しかし、なぜハンナに子供がいないのか、神の計画が何なのか、彼女は本当に知っていたでしょうか。

彼女は「知っている」と思い込んでいただけです。本当の知識を持っていないのに、知っているふりをしていたのです。

高慢とは、自分の思い込みを「真実」として、それに基づいて知っているふりをすることです。しかし、すべてを知る神の前では、思い込みも、そのようなふりも、通用しません。

日本語には「建前」と「本音」という言葉があります。外に見せる姿と、内にある本当の気持ち。しかし、すべてを知る神の前では、建前は通用しません。神は私たちの本音をすべてご存知です。私たち自身が気づいていない本音さえも。

誇りを、このように考えたことがあるでしょうか——神の前で「ふりをすること」として。

キリストの謙遜
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実は、ふりをしなかった方が一人だけいました。

すべてを知る神ご自身が、ご自分の御子を遣わされました。この方は神の御姿であられるのに、高ぶった言葉を一切語られませんでした。思い込みで判断されることはありませんでした。真の知識を持っておられたからです。そして、その完全な知識をもって、父なる神の御心に従われました。

ピリピ人への手紙2章によれば、キリストは神と等しい方でした。もし誰かに高ぶる権利があるとすれば、この方だけです。すべてを知る神ご自身。真の知識の源。しかし、この方はご自分を空しくし、しもべの姿をとり、死にまで、十字架の死にまで従われました。

そして、自らを低くしたキリストは、死からよみがえり、高く上げられました。

ここに福音があります。

真の知識を持つキリストが、私たちのために低くなってくださいました。私たちの誇り——真実を決める神の権威を、自分のものにしようとすること——その罪を、キリストは十字架で負ってくださったのです。

キリストにあって、私たちのふりは終わりを迎えます。もう、自分を守るために演技する必要はありません。真の知識を持つ方が、私たちのすべてを知った上で、愛し、受け入れてくださっているからです。

ふりをする必要のない場所
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このことは、私たちの生活にどう関わるでしょうか。

私たちの言葉はどうでしょうか。「私は悪くない、あの人のせいだ」と自分を正当化していないでしょうか。「助けなんていらない」と強がっていないでしょうか。「自分の人生は自分で決める」と、神がいないかのように話していないでしょうか。

しかし、良い知らせがあります。

すべてを知る神の前で、私たちはもう自分の方が知っているふりをする必要がありません。神は私たちのすべてを知っておられます。弱さも、失敗も、恥ずかしい思い出も。それでもなお、キリストのゆえに、愛しておられます。

これは解放です。

私たちは神の前で演技をする必要がありません。完璧な自分を演じる必要がありません。強い自分を装う必要がありません。すべてを知っておられる方が、私たちのすべてをご存知の上で、受け入れてくださっているのです。

15歳の私は、お父さんの前で恥ずかしい思いをしました。でも、お父さんは言ってくれました。「大丈夫だよ。お父さんだから。」

天の父なる神は、キリストを通して、同じように語りかけてくださっています。「大丈夫だ。わたしはあなたを知っている。それでも愛している。」そのような愛で、神は私たちを包んでくださっているのです。

あなたが手放せない「誇り」は何でしょうか。それを、すべてを知る神の前に持っていく勇気がありますか。

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