第一サムエル記 2章1〜2節
だれかに守られているという感覚を経験したことがあるでしょうか。
十五歳ぐらいの頃、私は自転車で近所を走り回っていました。その辺りには少年ギャングがいて、ある日、彼らに横目で見られてしまいました。やばいと思って、家に向けて高速で走りました。家の後ろの空き地から飛び込むように帰りました。
お父さんは家の前の庭にいました。少年のギャングが追いかけてきて、空き地の近くに立っていました。怖かったです。でも、向こうにお父さんがいるから大丈夫だと自分に言い聞かせました。永遠のように感じましたが、五分ほど経って、彼らは帰っていきました。
その時、お父さんがいる家が本当に安全な場所だということを身をもって知りました。
第一サムエル記2章でハンナが歌った祈りには、まさにこの「安全な場所」という感覚が溢れています。彼女は神を「岩」と呼びました。私たちの岩なる方はだれでしょうか。
救いにある喜びから出るもの#
安全な場所にいるとき、まず第一にできることは喜ぶことです。ハンナは「私の心は主にあって大いに喜び」と歌いました。この喜びは、自分がやったという喜びではありません。神が起こした行動から出る喜びです。ハンナにとって、苦しい状況から救い出され、息子が与えられたことが喜びになりました。彼女の喜びの源は神であり、その喜びには勝利感があります。
次に、「私の角は主によって高く上がります」と続きます。「角」というのは、雄ヤギの角のように、強さの象徴です。角が高く上がるということは、勝利したというイメージがあります。ハンナ自身は弱い者ですから、自分では何もできません。でも、神の強いみわざが彼女の苦しい状態に勝利されました。ハンナは神から与えられた強さを宣言したのです。
そして、「私の口は敵に向かって大きく開きます」。安全な場所に立つと、敵に対して言葉を発する自信が生まれます。私も、あの少年ギャングに対してそうでした。お父さんがいる安全な場所に立ちながら、「あっちへ行ってしまえ!」と言えました。
ハンナの心、角、口。この三つは、彼女の喜び、勝利、そして自信の源を明らかにしています。その源は神の救いです。
神ご自身はユニークです#
2節でハンナはこう宣言しました。「主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。」
「聖なる方」というのは、神の本質から出る特質です。神は私たちが考える聖なる方ではなく、神自らが聖とは何かを定義されます。第一ペテロ1章16節に「あなたがたは聖なるものでなければならない。わたしが聖だからである」とあります。聖なる方を知りたいなら、神自身を知る必要があります。
次に「岩」という表現があります。これは安定感、安心感、そして安全を与える神ということです。第二サムエル記でダビデは「身を避ける、わが岩なる神よ」と言いました。神は保護される方という意味です。
しかし、もし神が本当に「比類がない方」であれば、どのような言葉で説明しても神の本性を完全には明らかにできません。では、なぜ私たちは神について語れるのでしょうか。
それは、神が行動される神であり、神自身の言葉を通してご自分を現されるからです。私たちは神の行動を勝手に解釈することはできません。神だけがご自分のことを説明できます。
例えば、もし私のことを知りたいなら、私がしていることを観察することができます。「ネイサンはコーヒーしか飲まない」という知識を溜めるかもしれません。でも、直接私に聞いたら、実はお茶も好きだと分かります。それと同じように、神が自らのことを伝えなければ、私たちは神に関する本当の知識を得られません。
岩はだれでしょうか#
ハンナが歌った「岩」。この比喩は、旧約聖書の中で繰り返し神に使われてきました。イスラエルの民にとって、神は確かに彼らの岩でした。でも、その守りは完全だったでしょうか。
イスラエルは何度も敵に負け、何度も苦しみました。ハンナの息子サムエルの時代でさえ、民は神を捨てて他の神々に走りました。「岩」であるはずの神への信頼は、何度も揺らぎました。
ここに旧約聖書の不完全さがあります。神は確かに岩でしたが、民は何度もその岩から離れました。そして、岩そのものが人となって私たちのところに来るまで、この問題は解決しませんでした。
新約聖書で、この「岩」という比喩はキリストに使われています。ローマ9章33節にこうあります。「見よ。わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない。」
キリストが私たちの岩なのです。
ハンナが歌った守りと救いは、キリストにおいて完全に成就しました。キリストは私たちの保護者であり、救いの岩です。もはや離れることのない、永遠の安全な場所です。
私たちの岩#
この世には本当の安定感、安心感、安全がありません。日常生活の中でも、病気がありますし、人間関係のことで悩むことがあります。もっと大きな視点で見れば、天災や戦争があり、そして結局私たちは皆死にます。
人間はこの世に安全な場所をたくさん建てようとします。ビルを建て、お金を貯め、自分を守るものを集めます。でも、台風が来ればビルは揺れますし、お金は死から守ってくれません。
キリストという岩に囲まれたら、この世の嵐からも守られます。他にそのような岩はありません。
この岩に対する私たちの自然な反応は、実は抵抗と自分の誇りです。私たちは自分で自立して生きていたいと思ってしまいます。でも、ハンナが言ったように、「あなたのほかにはだれもいない」のです。万物は神のゆえに存在しています。神がいなければ、何も存在しません。
神の聖なる性質のゆえに、神の比類のない性質のゆえに、私たちは誇りを捨て、神の前に身を委ねることができます。
個人的には、私たちはキリストという岩に身を避けることができます。自分の弱さを認め、この方に信頼していくことができます。
共同体としては、私たちはこの世の嵐の中にいる人々に「安全な場所がある」と指し示す使命があります。キリストという岩を一緒に証ししていきます。
キリストは私たちの安全な場所です。この方にどのように応答するでしょうか。私たちのキリストのような岩は他にないからこそ、この方に信頼していく道しかありません。