「今年こそ、創世記から聖書を読み通そう。」
そう決意して読み始めた経験はありませんか。創世記は面白い。アブラハムの冒険、ヨセフの波乱万丈な人生。ところが、出エジプト記の後半あたりから様子が変わってきます。幕屋の規定、祭司の衣装。そしてレビ記に入ると、動物のいけにえが延々と続く。
「これは一体、私の信仰とどう関係があるのだろう?」
正直に言うと、私もそう思っていました。好きな箇所ばかり読み返して、よく分からない部分は飛ばしてしまう。旧約聖書と新約聖書のつながりを聞かれても、うまく説明できない。そんな状態が長く続いていたのです。
でも、ある読み方に出会って、少しずつ変わり始めました。
辞書ではなく#
「聖書神学」という言葉があります。難しそうに聞こえますが、その本質は意外とシンプルでした。
辞書と小説の違いを考えてみてください。辞書は、どのページを開いても意味がだいたい分かります。でも、小説は違います。第15章だけ読んでも、物語の意味は分かりません。登場人物がどんな人で、なぜそこにいるのか——それは、最初から読んできて初めて分かることです。
聖書は、辞書よりも小説に近いのではないか。
始まり(天地創造)があり、展開(神と人間の長い歴史)があり、結末(新しい天と新しい地)がある。そして、すべてを意味づける中心人物がいる。イエス・キリスト。
このことに気づかされた時、聖書の読み方が変わり始めました。
段階的に明かされた計画#
聖書神学から教えられた大切なことの一つは、神はすべてを一度に啓示されなかったということです。
アブラハムに与えられたのは、完成された神学体系ではなく、約束でした。「あなたの子孫は大いなる国民となる。そして、あなたを通して、すべての民族が祝福される。」アブラハムは、その約束がどう実現するか分からないまま、神を信じました。
数百年後、神はアブラハムの子孫をエジプトから救い出し、シナイ山で律法を与えられました。幕屋、祭司制度、いけにえの規定——これらは、神が民と共に住むとはどういうことか、罪がいかに深刻か、聖さとは何かを、目に見える形で教えるものでした。
そして、イエスが来られた時、それまでのすべてが新しい光の中で意味を持ち始めたのです。いけにえの子羊はイエスを指し示していました。神殿はイエスご自身でした。ダビデの王座の約束は、イエスにおいて成就しました。
以前の段階が「失敗」だったわけではありません。アブラハムへの約束も、シナイの律法も、それぞれの時代に本物の恵みでした。しかし同時に、それらは不完全であり、自分自身を超えた何かを待ち望んでいたのです。影が本体を待つように。
エマオへの道で#
復活の後、イエスは二人の弟子とエマオへの道を歩まれました。ルカはこう記しています。
「それから、イエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)
聖書全体に。ご自分について。
イエスは、聖書における多くの登場人物の一人ではありません。イエスこそが主題なのです。聖書全体がイエスに向かって流れ、イエスがすべてに意味を与えます。
このことが少しずつ見えてくると、レビ記も、歴代誌も、以前とは違って読めるようになりました。「この箇所は、キリストへと至る計画のどこにあるのだろう。キリストの到来は、ここで見ていることをどう変えるだろう。」そう問いかけながら読むことを、今も学んでいる途中です。
一緒に歩む旅として#
このように聖書を読むことは、技術というより、見方を学ぶことに近いと感じています。聖書の啓示の進展の形に親しむにつれて、あちこちでつながりに気づくようになる。かつて難解に思えた箇所が、その意味を現し始める。
私自身、まだ途中です。でも、この読み方を通して出会うのは、聖書についての情報だけではありません。何世紀にもわたって忍耐強くご計画を展開された神ご自身との出会いがあります。
聖書は、解くべきパズルではなく、入るべき道なのかもしれません。